就職活動でメンタルをやられる
就職活動は、大学3年の秋からはじめました。
といっても資格を取ったりということには興味がなかったので、就活イベントに参加してみたり適当に活動していました。
当時のぼくは「お給料」ということに、あまり興味がなかったのです。
いや、「お金」というものがどれほど人の心を狂わすか知らなかった。
同級生が自分よりもらっていると嫉妬するとか、大きい企業と小さい企業ではどれくらい給料が違うのかとか、退職金がどうとか、ステータスとか、生活レベルとか、なーーーんにも社会のことを知らなかったのです。
そのことは、のちのち後悔することになるのですが、合気道にのめりこみすぎて、周りが見えていませんでした。
とにもかくにも、ぼくは就職活動というものには、あまり乗り気ではなかったのです。
大学では文学部で言語学を専攻していて研究者になるのもいいいなと思ったことがあります。
しかし、やはり「社会で生きていく力をつけたい!」という思いから、アカデミズムの世界よりも、一般的な就職を選びました。
けれども、就職活動は難航しました。
大学名は「名古屋大学」で、申し分ない。
エントリーシートで落ちることはない。
一般常識などの一次テストも問題はない。
けれども、面接で落とされてしまうのです。

数はそれほど多くなかったけれども、徐々にぼくの心は疲弊していきました。
何枚も、一字一句間違えないように書く履歴書。
東京、大阪への遠征。
じぶんでは気が付かないうちに、疲れが蓄積していました。
4年生の春になっても、一社も内定をもらっていませんでした。
じぶんより偏差値の低い大学でも、体育会系の元気な人たちは、大手企業から何社も内定をもらっていた。
ぼくは、すごくみじめな気分になりました。
「ああ、お勉強ができても社会では求められないんだ」と。
試験がOKでも面接で落とされるということを
「性格や人格が悪いんだ。だから必要ないんだ」
というように解釈してしまっていました。

そのうちに、動くことが億劫な日が増えてきたのです。
大学の授業に行こうと思う。
でも力が入らなくて、ゴロンとしてしまう。
行かなきゃと思う、でも力が入らない。
そんなことをしているうちに、はじめて韓国語の授業の単位を落としてしまった。
大学の単位を落としたのは、それがはじめてでした。
それから、食欲がない日が続きました。
食べられない。
逆に、何も食べていないのに吐き気がする。
いま思えば、あきらかに自律神経を乱している症状でした。
けれども当時は、自律神経のことも知らなかったし、じぶんの体調とどう向き合えばいいのか分からなかったので、ただただ恐怖だった。
「こころとからだのの法則性」が分からないから、いつくるか分からない吐き気におびえていた。
東京に就活にいったときにも”コンクリートジャングル”のなかで、過呼吸気味になったのを覚えている。
ただ、その救いになったのが「合気道」だったのです。
合気道に救われる
合気道というのは、「ゆるむこと」を主体とした武道なのです。
もちろん色々な流派があるけれども、多くの流派では試合がなく型の稽古をします。
そのとき、「リキみ」があると技が掛からなかったり、それで強引にやると怪我をしたりします。
上手な先生ほど、余計なリキみがなく、こちらは気持ちよく投げられてしまう。
ぼくが通っていた町道場には上手なおじさんがいて、20歳のぼくはコロコロと投げられていました。
どれだけ思い切り持っても、気がついたら投げられているのが嬉しくて、何度も何度も投げてもらった。
「力を抜きなさい」
道場では、何度も何度もそのフレーズを繰り返される。
けれども、ぼくとしてはリキんでいるつもりはない。
そして「力を抜きなさい」と言われても、どこの力をどう抜いていいか分からない。
実際に力を抜いて「ふにゃっ」としてみると、「そうじゃない」と言われる。
「アンタが力を抜けって言ったんだろ」とイラっとくる。
若く血気盛んなぼく、はよくイラ立っていました。
けれども「ゆるむこと」が真理らしいことには、そのころすでに気づいていました。
そしてそのころから若干の呼吸法を行っていました。
とてもカンタンなもので、「吐く息を長くする」「息を吐ききる」というレベルのものです。
それでも当時のぼくには、それなりの効果がありました。
いやそれ以上に
「今は変な症状が出ていて不安だけれども、ゆるみさえすれば元気になれるんだ」
という希望が、ぼくのなかの救いだったのです。
そして、大学4年の夏になり1社から内定をもらうと、自律神経系の症状も知らぬ間になくなっていった。
とはいえ生来のナイーブさが消えるわけではない。
次に自律神経の症状に悩まされたのは、一人暮らしをはじめてからでした。
一人暮らしと自律神経失調症の再発
大学生のころの自律神経の失調は乗り越えたものの、ふたたびおかしな症状に悩まされることになったのは、一人暮らしをはじめてからでした。
2005年の春、就職のため家を出て、岐阜県土岐市で一人暮らしをはじめたのです。

ぼくは書店に入社したのですが、その職場はシフト制で、朝9時からの勤務と、昼13時からと、昼15時からの勤務がありました。
不規則な生活なので、はじめは体調が乱れないようにかなり気を付けていました。
しかし、1年もすると、つい心がゆるみがちになり、生活パタンが乱れていきました。
すると徐々に、ムクムクと自律神経系の症状が出始めたのです。
とくに顕著なのは、夕方くらいにかけてヘロヘロになってしまう症状。
なんとも言葉にしにくい不定愁訴で、
「生きる気力がなくなる」
「理由もなく怖くなる」
「布団の中に丸まっていたくなる」
というような感じでした。
ただ、面白いことにその症状は、現実逃避をして武術のDVDを見ていると復調に向かうことが多かったのです。
その意味でも合気道に救われたのです。
その後、三重県津市、茨城県笠間市へと転勤にともない居を移しましたが、やはり自律神経的な症状はときおり顔を出していた。
とくに茨城にいるときは顕著で、朝の出勤前にトイレに入っていると、「ふぅーっ」と気を失いそうになることが何度もあった。
実際には、気を失いかける前に、お腹をググっと操作すると収まるので大事に至ることはなかったが、なかなかに不健康だったと思う。(仕事は絶対に休まないと決めていたので欠勤したことはない)
このときも、練習していた呼吸法によって救われた。
とはいえ、当時(2008年ごろ)は、まだまだ自分の身体のことをよく分かっていなかったので、カラダがいつ不調になるか、とても不安だった。
「健康のまま生きていけるんだろうか」
「この不安を一生かかえながら過ごすのかっ…!」
「不安が不安すぎて、いつか自殺してしまうかもしれない…」
ぼくは、そんな思いを抱えるようになっていました。
そんなときに出会ったのが石原結實さんの一連の書籍だったのです。
石原結實さんの本に出会う
石原さんの本は極論が面白いというか、言い切りのクセがスゴく、インパクトがありました。
「どんな病気も冷えが原因。だから温めれば治る!」的なシンプル理論。
ただ、アホなところがあるぼくのアタマは、その理論にすがりました。
実際にリンゴジュースをよく飲むようになったり生姜紅茶を飲むようになったりしたが、それよりも大事だったのは
「温めればいいんだ!だから俺は大丈夫なんだ!!」
という希望がぼくの心に生まれたことでした。
その考え方じたいが、ぼくの心を温めていました。
理論が正しいか正しくないかというのは二の次なんです。
人は心の底で「これで俺は大丈夫だ」と思えたとき、現実も「大丈夫」になってしまうのです。
石原さんの本をきっかけに、さまざな健康法の本を読むようになり、それで安心を得たのか、自律神経的な症状はしだいに鳴りを潜めていきました。
ただ、ぼくの健康に寄与したものとして「健康法」以外にも、大切なことがあったのです。
それは、現在の妻 葉月と一緒に暮らし始めたことでした。
続く