現在の妻である、葉月さんと暮らし始める
茨城県笠間市には10か月ほど住みました。
その間に、現在の妻である葉月と付き合うことになりました。
転勤が決まったその日に、付き合うことになったのです。
なので、
「一緒に行く?」
「うん」
たったそれだけの、カンタンな契約でした。
当時18歳になったばかりの、葉月さんの大胆な決断です。
それで、一緒に転勤先の千葉県いすみ市に行くことになりました。
ちょうど12年前の2008年、11月のことでした。
さて、一緒に住み始めて。
18歳の葉月さん、とつぜん全部の家事を任されることになりました。
ぼくは当時、男と女が一緒に住んだら女が全部の家事をやるものだと思い込んでいました。
「男は働き、女は家を守る」
そういう価値観だったのです。
それでも葉月さんは一生懸命に家事をやってくれました。
しれっと煮物や焼き魚を食卓に出してくれていましたが、その裏ではケータイ(当時はガラケー)で調べたり、お母さんに電話したりして必死だったそうです。
ただ、その甲斐あってか、ぼくはさらに健康になっていきました。
自律神経的な症状もほとんど出なくなりました。
それには健康的な食事が大きかったと思う。

千葉県いすみ市は、海が近いので新鮮な魚が安く買える。
それを慣れないながらも葉月さんが調理してくれる。
それまでは、ごはんが本当に適当でした。
昼食はコンビニおにぎり二つにメロンパンとか。
炭水化物のみ&たっぷり添加物。
それが「まともな食事」になったのは大きかったと思う。
それから生活が規則的になった。
シフトの関係もあったけれども、11時に寝て5時に起きるみたいな生活になったことが自律神経のバランスを取り戻した大きな要因だったと思う。
ちなみに、なぜ11時に寝て5時に起きていたのか。
それは朝に、整体学校のDVDを見て勉強していたからなのです。
そう、ぼくは千葉県いすみ市に転居するとほぼ同時に整体学校に通い始めていました。
整体学校に通い始める
月2回。土日。4か月。
このときは、整体の資格をとって本屋の仕事の合間に副業しようと思っていました。

もちろん副業は禁止なのですが、「このままの給料では足りないなぁ」と思っていたので、土日に整体で稼ごうと思っていました。
その頃は、葉月さんに毎晩、練習台になってもらっていました。
当時は葉月さんもいろいろ抱えていましたので、カラダがガチガチで、すぐに肩甲骨が痛くなっていました。
それが、習いたての手技で、それなりに痛みが取れたので面白かったのを覚えています。
そして、2009年4月、整体の初級講座を修了して、「はて、どうしようか」と考えました。
ぼくとしては、「整体の道に進みたい」という思いがある。
しかし、どうやって開業にまでこぎつけていいかわからない。
人生ではじめての借金
はて、次はどうしたものかと考えた末に思いついたのが、整体の師匠に雇ってもらうことだった。
さっそく打診。
「先生、ぼくを雇ってくれませんか?」
「いいけど、ウチはリウマチなどの重症者が多いから初級講座のレベルじゃ対応できないぞ。
上級コースに進む覚悟があるんなら、雇ってやってもいい」
上級コースの受講料は300万円で、初級コースで80万円を払ってしまった僕には、とても払える金額ではありませんでした。(貯金は残り40万!)
それで師匠に言いました。
「先生、300万円はとても無理です。」
「カネを借りればいいじゃないか」
「えー、借金ですか。怖いです」
「尾関よ、お前は整体師としてこれから何年やっていくつもりなんだ」
「いま27歳ですから、あと30年は働きたいですね」
「ってことは300万で学校に入学するんじゃないんだよ。300万円で、これからの30年を買うんだよ。」
「・・・・・・・。」
「借金と思うから怖いんだ。投資と考えろ。おれも学校入るのにカネを借りたが、半年で返済したぞ。」
そこでスイッチが入りました。
「これはやるしかない」と。
本屋の仕事も愉しい。
けれども40年勤めあげて、本当に後悔のない人生になるか?
やりきったと言えるか?
納得できるか?
じぶんの才能をいかんなく発揮できるか?
ということを真剣に吟味してみると、イエスとは言えなかったのです。
それなら人生、勝負に出るしかない!
まだ27歳、いくらでも挽回できる!!
やるぞ!
師匠の言葉で、ハラをくくりました。
そこから色々と動いて、国民金融公庫から200万、親から100万円を借りて300万円を調達しました。

300万円を整体学校に振り込むときは、手が震えました。
「本当にこれでいいのか?もうあとには引けないぞ・・・!」
間違いなく、あの瞬間が人生の岐路であり、「じぶんの人生」を生き始めたスタートだったと思います。
そして無事、上級コースに入学、師匠に雇ってもらうこともできました。
すると、別の師匠から、
「尾関よ、今度あたらしい院を出店するんだが、そこの院長をやらないか?」
とお声がけいただいたのです。
NOという理由はありません。
ふたつ返事で「ぜひやらせてください!」とお受けしました。
けれども、そこからが大変だったのです…
書店を退職、整体師になる
まずは書店の退職。
ここまでくるとさすがに副業でやるつもりはなく、本気で整体の道を歩もうと思っていました。
さっそく上司に連絡して退職の旨を伝えました。
すると、思った以上にすんなりと話は進み、とてもあっけなかったのを覚えています。
引継ぎも1日で終わり、「ああ、会社での存在なんてこんなもんなんだな」と悲しく感じました。
さて、そこから残りの有休を消化しながらの引っ越しの準備です。
葉月さんがテキパキと荷造りをしてくれて、とても助かりました。
そして2009年7月初旬。
千葉県いすみ市から千葉県習志野市へと引っ越しました。
千葉県習志野市で整体師として仕事をはじめる
師匠の新店は、3階建ての介護施設の一画を間借りするという、すこし独特な形式でした。
デイサービスと訪問介護の事務所があり、そのスキ間に3m×4mの空間をパーティションでつくり、そこが施術スペースになります。
ところで、新店のオープンは8月1日。くしくも葉月さんの誕生日です。
今は7月アタマ。
つまり3週間で、整体のレベルを「現場レベル」にグッと底上げし、かつ新規顧客の集客を行う必要がありました。
陣頭指揮をとってくれたのは、師匠の一番弟子にあたる、ぼくの先輩です。
死ぬほど優秀かつ体力があって「鉄人」と呼ばれていました。
指導を受けるのは、院長のぼくと、他のスタッフ2人の、合わせて3人。
まずは施術やコミュニケーションの徹底した練習。
先輩は死ぬほど忙しい仕事の合間をぬって、ぼくらの指導をしてくれました。
また、チラシやHPに関しても、ゼロから教えてくださいました。
しかし、施術も集客も、全くできない!
全部はじめてだから当たり前といえば当たり前ですが、なんにもできないのです。
整体学校の初級講座のレベルでは到底対応できないと感じました。
なので、ダメダメな自分をふがいなく感じながら特訓を続けました。
またチラシなどのマーケティングに関してはもっとダメでした。
チラシは作っても作っても「使えない」と言われる。
「なんだよ、こっちだって一生懸命やってるのに!」なんて思いましたが、シビレを切らした先輩が一晩で作ったチラシを見て納得。
レベルが100倍違うのです。
ぼくが何日もかけて作ったチラシよりも、先輩が数時間で作ったもののほうが何倍もレベルが高かった。
HPもまったく同じでした。結局ぜんぶ先輩がやってくれました。
そんな感じで完全におんぶに抱っこでした。
あとは作っていただいたチラシを3000部ほど印刷してポスティングして回りました。
そして迎えた8月1日当日。
なんだかんだで、12名の新規さんが来てくださり、なかなかの賑わいを見せたのでした。
とはいえ、スタートしただけで「ホッと一安心」なんてしているヒマはありません。
ここからが、さらに大変だったのです・・・
続く