葉月さんが体調を崩す
どうにかこうにかオープンにこぎつけた新店。
初日は12名の新規さんがいらっしゃいました。
ホッとするのも束の間、まだやることは山積みです。
施術の勉強、コミュニケーションの勉強、そしてチラシ・HP…。
とにかく「経営」というものはド素人だったので、ぜーーんぶゼロから学ぶ必要がありました。
そして合間に整体学校の上級コースを履修。
けれどもまたここで問題が起こりました。
葉月さんの体調が、かなりよくない状態になってしまったのです。
いろいろと原因はあるだけろうけれども、電車に乗れない。外に出るのが辛い。一人で家にいられない…。
名前をつければ不安症とか恐怖症とかパニックとか言うのでしょう。
![](https://il-c.jp/wp-content/uploads/2020/10/3258353_s.jpg)
そんな症状が出るようになってしまいました。
もちろん、自律神経系の症状です。
つまり、ぼくも葉月さんも自律神経のバランスを崩しやすいタイプなのです。
それでぼくは、整体学校を休まねばならない日が増えていきました。
最終的に、6か月の整体学校のコースは、半分くらいしか通えませんでした。
あとは同期の先生にノートを借りたり、ちょうど体調不良の葉月さんを相手に練習したり、マーケティング関連の本を買ってきて家で勉強したり。
そうやって半分くらいは独習で学んでいった。
とはいえ、徐々に本などもそうは買えなくなっていった。
というのは、貯金がどんどん減っていたのです。
毎月10万円ずつ減っていく貯金と「生きる充実感」。
当時、葉月さんと2人で2DKのアパートに住んでいて家賃が65000円でした。
それで整体のお給料は歩合制(1人1000円)で、いちばん厳しいときには60,000円。
それだけでも5000円のマイナス。
もちろん、そこに食費やガス水道代などがかかってくるわけです。
だから平均して毎月10万円くらい赤字だったと記憶しています。
そうなるとね、飲み会とかも行けません。
大好きだった本も、そうとう吟味して買うようになっていました。
外食なんてもってのほか。お昼はいつも葉月さんの手作り弁当でした。
ぼくが整体学校を卒業するころには、葉月さんも徐々に回復してきて、ケーキ工場やパチンコ屋で働いて家計を支えてくれました。
それでもお金が足りなくて、国民年金は2人してサボっていました。(独立開業後に返済しました)
年収でいうと180万くらいだったと思います。
面白いことに、それでもみじめな感じはありませんでした。
それは、初めて自分で人生を選んだ、じぶんで掴み取ったという感覚があったからです。
「おれは一歩を踏み出したんだ!」
という自信があり、「それなりに楽しかった」会社員時代とは、比べものにならないほど充実していました。
そのせいか、会社員時代に抱えていた「給料をたくさんもらってる友人への嫉妬」などもなくなっていました。
そのとき「年収に嫉妬してると思っていたけど、ほんとうは生きる充実感を感じたかっただけなんだ。生き切っていないじぶんへの嘆きだったんだ」と分かったのです。
お金の問題は「表面的な問題」だったのです。
そんなこんなで1年半が過ぎました。
最終的に、そのお店は月間でのべ250人ほどを施術する院に成長していました。
多い時にはのべ300名以上が来院されることもあり、ベッド1台で、この数字というのは繁盛店と言っていいと思う。
ときには朝からごはんも食べずに施術ばかりしていました。
それでおよそ1年半で、のべ3067名の方を施術させてもらい自信をつけたぼくは、地元愛知に帰り独立することに決めたのです。
想像もしなかった展開
そんな2011年の1月、葉月がビックリすることを口にしました。
「子どもができたみたい…」
晴天の霹靂。
![](https://il-c.jp/wp-content/uploads/2020/10/1266218_s.jpg)
たしかに「油断」していたところはありました。
どうせ結婚するのだし、そこまで気を付けなくてもいいかと気を抜いていた部分はありました。
しかし驚きです。
こうもまぁ人生というのは想像もできない動きをしていくのかと。
そしてまったく実感がありませんでした。
「まさか。ぼくがパパになるなんて」と。
妊娠検査薬の結果を観ても、子どもエコー写真を見ても、なんの実感も湧かないのです。
「4月には戻って開業の予定だが、 開業と同時にはじめての育児などできるだろうか」
そんな不安もあったが、悩んでも仕方がない。
とりあえず4月に戻って開業、9月に出産という予定になった。
すると、その2か月後。
2011.3.11。
東日本大震災。
![](https://il-c.jp/wp-content/uploads/2020/10/1505014_s.jpg)
ぼくは施術をしていて、葉月さんは一人で家にいました。
ものすごい揺れで介護施設の利用者もスタッフもバタバタしていた。
ぼくは院を閉めるとすぐに家に戻ったが、葉月さんはブルブルと震えて丸まっていました。
幸いにも本棚なども倒れることもなく、大きな被害がなかったのは幸いでした。
その後も4月7日に愛知に戻るまで、計画停電を何度か経験しました。
信号の消えた真っ暗な街は、今でも忘れられません。
近所の大型スーパーからも、ほとんどの食材がなくなっていました。
地元、愛知県に戻る
そして2011年4月7日19時。
千葉県習志野市のアパートの鍵を不動産屋に返却し、2ドアのコンパクトカーで、一路、愛知へ。
実家に着いたのは、夜中の2時。
母が起きて待ってくれていて、迎えてくれました。
そして翌朝はやく、地元の不動産屋に行き、新居の鍵をもらう。
新居とはいえ、築30年の年代物。
1階が施術所になっていて、2階が居住空間。
間取りは2DKで、かなり年季の入ったつくりです。
結婚しての新生活が、かなり渋くなってしまいましたが、葉月さんは文句ひとつ言いませんでした。
そして4月8日からスタートして2週間強。
4月25日に「整体院 空」をオープンしたのです。
![](https://il-c.jp/wp-content/uploads/2020/08/o08000600130996717651.jpg)
ちなみに、その4日前4月21日には、無事入籍を済ませました。
しかし、結婚生活は順調にはいきませんでした。
「開業だ、新規集客だ、チラシだ、勉強だ」と意気込むぼくと、見知らぬ愛知に来て、知り合いもいない中で初めての育児をする妻。
そのズレは、どんどん大きくなるばかりでした…
経営は順調、しかし深くなる夫婦の溝…
千葉県で徹底的に整体や経営を学んだこともあり、院の経営はすぐに軌道に乗りました。
開業から数日後にチラシを出したときは電話が鳴りやまず、赤ペンでメモしていた「予約帳」は、どんどん真っ赤に染まっていきました。
そして開業2か月目で月商90万、開業3か月目で100万円を超え、そこから月商100万円をくだることはありませんでした。
当時は妊婦の葉月さんが受付をやってくれていました。
ぼくは施術に専念。
そういうスタイルでした。
しかし、ほぼ24時間一緒にいても、なのか、一緒にいるから、なのか、お互いがスレ違うことが増えていった。
![](https://il-c.jp/wp-content/uploads/2020/10/4058757_s.jpg)
元来が心配性のぼくとしては、「もっと仕事がしたい。仕事をしなきゃ。」
見知らぬ土地で不安を抱える葉月さんは「もっと気持ちを分かってほしい。」
そうこうするうちに、9月に出産を控え、葉月は8月初旬には実家の茨城に戻りました。
そして2011年9月1日。長女誕生。
夜中の3時ごろでした。
枕元の携帯が鳴って、生まれたばかりの子供の写真が送られてきたのです。
ぼくの第一の感想は「へぇーーー」
「ありがとう」でも「よくやった」でも「うれしい!」でもありませんでした。
「ああ、これが、おれの、子ども。そうですか・・・」
寝ぼけていたのもあったけれども、そんな感じでした。
ここでハッキリ言っておくと、ぼくはおかしくなっていたのです。
成果を焦るあまりか。
自らの傷に長年フタをしていたからか。
ナイーブさをごまかして強がっていたからか。
答えは分からない。けれどもおかしかったのは事実で。
子どもの誕生を「どう喜んでいいか分からなかった」のです。
そんな状態だから、葉月さんが10月に長女を連れて帰ってきてからは、またどんどん夫婦のズレが大きくなっていきました。
ケンカも増え、お互いに手を出すこともありました。
ぼくは、丸1日仕事をしていないと気が済まなかったのです。
典型的なワーカホリックの症状です。
こうなると、独身時代であればまた自律神経を乱していたのでしょう。
しかし結婚してからは、葉月さんがまるで身代わりのように体調不良になったのです。
妻の体調が崩れると、ぼくは仕事を休んだり、子どもの面倒を見なければいけない。
今にして思えば、それが僕の態度のせいで起こっていたんだと分かる。
しかし、仕事中毒の当時のぼくが感じたのは
「葉月が体調不良になって邪魔をする…」
ということ。
「じぶんの体調や感情くらい自分でコントロールしてくれよ…」と。
「言葉じゃないもの」に敏感な葉月さんは、そうしたぼくの感情を繊細に感じ取っていました。
当時、妻がよく言っていた言葉があります。
「あなたは近くにいるのに遠い…」
言葉でしかコミュニケーションが取れなかった僕が思ったのは
「何言ってんだコイツ。そばにいるじゃないか」
そうした僕の拒絶をまた葉月さんは敏感に感じ取り体調を崩していく。
ぼくは思うように仕事ができずに苛立っていく。
そうして、ぼくら夫婦は、どんどん悪循環にハマっていったのです。
「その5」に続く…↓